「三願転入」は、すべての人の獲信までの道程 (4/4)
三願転入を否定する者あらば
三願転入は十方衆生の獲信の道程である。
十九、二十は方便願と聞いて本気になろうとしないのは、とんだ聞き損ないだ。
方便とは我々を真実に近づけ、体得させるに絶対必要なもの。
「ウソも方便」と、世間では意味も知らずに使っているが、方便とはあってもいい、なくてもいいというものではない。
方便なくして我々は真実の絶対界には入れないのだ。
弥陀は十九、二十の方便二願を建て、釈迦はその願意を一切経に説きあらわし、我々を誘引なされている。
その釈迦・弥陀の真意を説かれるのが善知識方の教えである。
善の勧めを軽んじ、実行に移そうとしないのは、弥陀・釈迦・善知識方のご方便をすべて反故(ほご)にすることだ。
方便を通らずに、真実である選択の願海に転入するなど、どうしてありえよう。
「方便を悪しということは有る間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」
(蓮如上人『御一代記聞書』)
「弥陀、釈迦、善知識方のご方便がなければ、真実信心を獲て無碍の一道へ出ることは絶対できない」と蓮如上人も仰せだ。
親鸞学徒の求道の道とは、三願転入の道である。
若し三願転入を否定する者あらば、それは弥陀の本願を否定し、釈迦一代の教を否定し、七高僧を否定し、親鸞聖人の教えを否定する、仏教の門戸も知らぬ浅ましき外道である。
三願転入は、弥陀のお計らいなのである。