「三願転入」は、すべての人の獲信までの道程 (3/4)
方便の道程を通らなければ、真実の絶対界には出られない
もちろん、これは、親鸞聖人だけのことではない。
「至心信楽欲生と
十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする」(第十八願) (浄土和讃)
「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける」(第十九願) (浄土和讃)
「至心廻向欲生と
十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ
不果遂者と願じける」(第二十願) (浄土和讃)
十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する十方衆生の道程と、見ておられることがよくわかる。
このことは『三経往生文類』にもみえるが、いまは『愚禿鈔』の文をあげておく。
「ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなはち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり」
「万行諸善の小路(十九願)より
本願一実の大道(十八願)に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)
誰もが、意識すると、しないとにかかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の絶対界には出れないのだ。
方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして真実と知れようか。
真実を真実と知らすための、方便なのだから。
なればこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、ことごとく、方便と真実を比較して説かれ、〝方便より真実に入れよ〟との教えなのである。
その方便(仮)を知らないのは、真実(真)もわかっていない証拠、と結論づけられる。
「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)
親鸞聖人が、キッパリと、こう仰有るのも当然なのだ。
修善を実行さすのが、十九願
では弥陀が、十九に誓われた、方便とは、どんなことで、あったのか。
自惚れ強く、そのうえ、相対の幸福しか知らない我々に、はじめから絶対の幸福になるのだと言われても、猫に小判、所詮は、狂人のネゴトにしか聞こえぬに違いない。
まず、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の法則から教え、悪果が嫌なら悪を慎め、善果がほしくは善を励めと、廃悪修善を指導する。
仏教の定規は、因果の道理。因果の理法は廃悪修善。その修善を実行さすのが、弥陀の十九の願である。
「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、本願寺は胸張らるるけれども、木をみて森をみず、森をみて山を知らず、の類。仏教の山全体が、文証であることを知らないのだ。
それとも、仏教の定規を無視された、親鸞聖人や蓮如上人とでも、いうのであろうか。
(『本願寺なぜ答えぬ』浄土真宗親鸞会発行)