磯長の夢告と弥陀の本願 (2/4)
仏法に明日はなし
3・11の大震災で亡くなった方々も、その日の午前中までは、「明日がある」と思っていられただろうが、事実は明日はなかったのである。
「仏法には明日という事あるまじく候」と蓮如上人は仰せである。明日がないのが、万人の真実なのである。
死は、それほど切迫した問題なのだが、誰も真面目に考えようとはしない。老後のことは、皆考えるし、年金、介護は問題にする。しかし、老後で終わりではないのである。
「世の中の娘が嫁と花咲いて、かかあとしぼんで婆と散りゆく」と言われるように、誰もが確実に死に向かっているのであり、死んだあとは、後生、来世なのである。
後生はただ弥陀一仏に
では、人間、死んだらどうなるか。「死ねば天国」と気楽に言っているが、本当にそうなら、この世で苦しむよりも早く死んだほうが利口ということになる。そう言いながらも実際に死ねないのは、「死ねば天国」の確信などないからである。どれだけ考えても分からないから、結局、「そんなこと考えてもしかたがない」と、皆アキラメてしまっている。だが、アキラメでは何の解決にもならないのである。
今、被災地では「先が見えない不安」を訴えている。これからどうなるか、先がハッキリしないからであろう。
老若男女を問わず、「死んだらどうなるか」は人生最大の問題であり、不安の根元であるから、仏教では、生死の一大事とも後生の一大事ともいわれるのである。
親鸞聖人は、わずか9歳にしてこの一大事に驚かれ、解決を求めて仏門に入られたのである。
この後生の一大事の解決は、本師本仏の阿弥陀如来のお力によるしかない。阿弥陀如来だけが、我々の後生の一大事を解決し、「往生一定」いつ死んでも、極楽浄土へ往って、阿弥陀仏と同じ仏に生まれる身に助けてくだされるのである。
蓮如上人は、それをこう教導されている。
「それ、十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、空しく皆十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今のごときの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
(御文章2帖目8通)
"すべての人は、大宇宙の一切の仏から「救い難き者」と見捨てられた悪人である。そんな我々を諸仏の師である阿弥陀如来のみが、ただお一人「私が助けよう」と立ち上がり、崇高な無上の大願を建てられたのだ"
この弥陀の本願によって後生の一大事を解決していただき、往生一定の身に救われた洪恩を、親鸞聖人は、「如来大悲の恩徳」と仰り、「この大恩、身を粉にしてもお返しせずにはおれないのだ。そのためなら親鸞、殺されても本望だ」と言われているのである。