磯長の夢告と弥陀の本願 (4/4)
「自力の心」が殺される
だがやがて、これらの謎が、一度に解ける時がやってきた。29歳、弥陀の救いにあわれた時である。 阿弥陀仏は本願に、「十方衆生(すべての人)を、必ず信楽(絶対の幸福)に救う」と誓われている。
だが、絶対の幸福など、見たことも聞いたこともない私たちは、「そんな幸福があるのだろうか」「あるはずない」と必ず疑う。そこで阿弥陀仏は、その疑いを晴らすために、
「若不生者 不取正覚」
と誓われているのである。
「若し生まれずは、正覚を取らじ」と読むが、正覚とは仏のさとりであり、仏にとっての命である。阿弥陀仏は、「すべての人を、必ず絶対の幸福に生まれさせてみせる。もしできなかったら、仏のさとりを捨てる」と命懸けで約束されているのである。
「生まれる」には、死なねばならぬ。親鸞聖人は、この弥陀の本願に救われた時、死ぬのだと仰っている。同時に、光明の世界に生まれるのだと。
それを『愚禿鈔』に、こう教述されている。
「本願を信受するは前念命終なり、即得往生は後念即生なり」(愚禿鈔)
“弥陀の本願まことだったと信受した時、永の迷いの命が死ぬのだ。同時に、往生一定の光明の世界に生まれるのである”
親鸞聖人が「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と、弥陀の本願を信受されたのは、29歳であったから、磯長の夢告から10年目のこと。「十年余りで死ぬ」と言われたのは、自力の迷心のことであったのである。
そして、「速やかに浄らかな世界に入るであろう」と言われたのは、一念の弥陀の救いであり、絶対の幸福(信楽)を獲ることを予告されたものだったのである。
深く信じなさい、心から信じなさいと勧められた真の菩薩とは、法然上人であったことも、聖人は明らかに知らされたことであろう。
燃える恩徳讃 生涯を貫く
親鸞聖人までは、この弥陀の本願の「若不生者」は、「肉体が死んだら、極楽に生まれさせることだ」と思われていた。同じ法然門下の兄弟子だった善慧房証空も、そう信じていた。
その誤りを親鸞聖人が正されたのが、「体失不体失往生の諍論」である。「弥陀の本願は、死んだら極楽に生まれさせる体失往生だ」と主張する善慧房に、聖人は、「それはあくまで結果であろう。結果を得るには、原因がなければならない。生きている時に、自力の心が死んで、他力の心(信楽)に生まれる心の往生がなければ、極楽往生はできないのだから、弥陀の救いは、現在ただ今の不体失往生である」と、「若不生者」の真意を喝破なされている。
「若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜する人は
往生必ずさだまりぬ」
(親鸞聖人)
阿弥陀如来の「若不生者の誓い」によって、信楽に生まれる時が必ずあるのだと、聖人は断言されている。
死んでからではない。平生ただ今、往生一定に救い摂ってくだされた、この弥陀の大恩、親鸞、身を粉にしても報ぜずにおれないのだ。そのためなら、どんな非難攻撃も受けて立つと、一生涯、恩徳讃で貫かれたお方が、世界の光・親鸞聖人だったのである。