『御文章』とはどんなもの
妻「あんた、一つお願いが」
夫「今、勤行中や」
妻「終わったのとちゃうん?」
夫「『正信偈』が終わったとこや、このあと『御文章』を拝読するんや」
妻「そりゃ堪忍な。で、『御文章』って何やの?」
夫「あのな、まあええわ、親鸞聖人のみ教えを、正確に日本中に広められた蓮如上人の書かれたお手紙を、80通、本にまとめられたものや」
妻「親鸞さまの書かれたものだけではあかんの?」
夫「そやないけど、『正信偈』は難しいやろ。蓮如上人はな、親鸞聖人の主著『教行信証』を、表紙がぼろぼろになるまで読み込まれてな、そのうえで、我々のような愚鈍な者にも受け取れるよう、大事なことを千の中から百選りすぐり、百の中から十を絞られ、十の中から一を選ばれて、『御文章』80通に平易に書いてくだされたんや」
妻「教えが凝縮してるんやね」
夫「そや、書かれた上人ご自身が、『我が作りたるものなれども殊勝なるよ』と言われてんねん」
妻「ほんまでっか!そりゃまた大胆なこと仰るなあ。もしあんたの書いた作文を、あんたが『殊勝や』言わはったら、直ちに病院に送られますで」
夫「何でわしは病院やねん」
妻「前から変や思うとったけど、やっぱりボケてたかと」
夫「やかましい。蓮如上人が『殊勝』と仰ったのは、一切、ご自身の考えや体験を交えず、親鸞聖人のみ教えを明らかにすることに徹せられたからよ」
妻「親鸞聖人のみ教えだけ?」
夫「そや、親鸞聖人のお言葉は弥陀の直説やねん。『御文章』のどこを見ても、『当流親鸞聖人の一義は……』『聖人一流の御勧化の趣は……』とあるやろ。80通のお手紙いずれも〈親鸞聖人はこのように教えられた〉とあるだけで、この蓮如は『ああだった』『こうだった』ということは一切書かれてへんのや。だから〈『御文』は如来の直説なり〉とも仰られるんよ」
妻「そっか、自慢して言われてるのとちゃうねんな」
夫「ああ大違いや、『更に私なし』という親鸞学徒の本道を貫かれた表明なんよ。だからこそ『御文章』は、凡夫往生の手鏡ともいわれるんや」
妻「何で手鏡ですの?」
夫「手鏡いうたら、おまえもいつも持ち歩いて、きれいな顔よう見とるやないかい」
妻「そうですな」
夫「そうですなっておまえな、まあええわ、『御文章』は肌身離さず、何度も何度も読ませていただくものなんや」
妻「でも手鏡いうのは見るもんやないの?」
夫「ええやないか。仏教を法鏡ともいうんや」
妻「そうなんや。ところで、お願いちゅうのはな」
夫「ええかげんにせえ!これからその『御文章』の拝読や」
妻「……そういえばあんたも結婚前は、よう手紙くれはりましたな」
夫「へ?今さら何やねん。まだ持ってるんか?」
妻「もちろん、全部取ってありますで。『君のためなら、たとえ火の中、水の中……』随分と殊勝な内容でしたなあ。後で拝読しまひょか」
夫「あかん、あかん。あんなん読まれたら、恥ずかしゅうてもう生きておれんわ」
妻「ほな、私の言うこと何でも聞きますな?」
夫「ああ、何であんなこと書いたんや。今さら愚痴か……」
妻「そう、それよ。グッチのバッグが欲しかってん」