演目「死の縁 無量」
熊「え〜魚屋で。え〜あさりにしじみ。へっくしょん!」
溜「よせよ魚屋さん。そんな声じゃ、風邪がうつっちまいそうで誰も来やしないよ」
熊「へえ、すみません」
溜「最近の風邪はたちが悪いんだ。かかった、と思ったらたちまち高熱が出て、パタッと逝っちまうって話さ。あんたもさっさと家帰って寝たほうがいいよ」
熊「へへ、脅かさないでくださいよ。風邪なんかで人が死ぬもんですか」
溜「それが死ぬんだよ。ころっと逝くんだ。ころっと。この界隈でも葬式を出したばかりよ。気をつけな」
そりゃ大変!さっさと売って帰ろうと、天秤棒を担いで「あさり〜、しじみ〜」とやってますと。
源「おう、魚屋。今おっ母の看病しているとこだってえのに、『あっさり、死んじめえ』とはどういう了見だ!」
熊「いいえ、あさりにしじみと」
源「しょぼくれた声出すから、あっさり死んじめえに聞こえるじゃねえか。本当に死んじまったらどうすんだ!とっとと行きやがれ!」
熊「すみません」
こんな時は、何やったってうまくいかねえと、帰り支度をしておりますと、後ろから呼び止める声がいたします。
医者「これ、そこの魚屋」
熊「へ?あっしですかい?」
医者「そう、そなたじゃ、風邪を引いたな」
熊「分かりますか」
医者「分かるとも。これでも医者じゃ」
熊「そりゃよかった。じゃあちょっと診ておくんなさいよ。流行の風邪なら大変なんだ。まだ死にたくはねえ。助けておくんなさい」
医者「では診てしんぜよう。でも風邪は治せても、死ぬのは止められないぞ」
熊「そりゃま、そうでしょうけど、今はまだ死にたくねえんでさあ」
医者「だがな、風邪は治っても、その心はどうするつもりじゃ?」
熊「心をどうするってねえ、風邪さえ治してくれたらそれ以上の野暮は言わねえや……」
医者「いや、今風邪で死ぬのを逃れても、いずれまた死ぬ羽目になる。また慌てふためくぞ。だから急ぎ解決すべきは、後生真っ暗なその心のほうではないか?」
熊「何だか難しい話になってきたねえお医者さん。でもあんたの言うとおりかもしれねえな。死なずに済んだのを助かったてえなら、風邪が治ったところで助かったわけじゃねえ。死ぬのがちょっと先送りになっただけだもんな」
医者「さよう。助かったといっても、一時助かったにすぎんのだ。この辺の漁師さんから聞いたことじゃがな、お父つぁんも爺さんも皆代々、漁に出て海で亡くなったんだそうだ。だから『そんな恐ろしい海に、よく毎日平気で漁に出られるのう』って言ったんじゃよ」
熊「すると?」
医者「その漁師が、『じゃあ、あんたのお父さんはどこで死んだんだ?』って言うからな、『そりゃ畳の上だ』『じゃあおじいさんは?』『やっぱり畳だ』。するとこう言うんだ。『そんな恐ろしい畳の上で、あんたよく平気で寝ておれるねえ』だとさ」
熊「ははは、なるほど。どこにおろうが死は免れねえってわけか。そりゃ道理だ」
医者「死の縁無量だ。だから、いつ死が来ようと往生一定、一切が障りとならない身になることこそ、急がねばならぬ最大事なんじゃよ」
熊「あんた、ただの医者じゃないね。もっと続きを聞かせておくんなさいよ」
医者「うーん、でも風邪も治さねばなるまい。スズキ(続き)は明日ということで」
熊「いいや、明日と言わず、今日願いマス」