演目「身投げ橋」
昔は、両国橋のような大きな橋になりますと番人がおりまして、通行料(二文)を取るほか、監視の役目もしておりました。
ある年、毎晩のように身投げ事件が起きたものですから、町奉行より、夜中も見張れとのお達しで、橋番たちはしぶしぶ寝ずの番をしております。
そこへ真夜中ふらっと来たのが一人の花魁(人気の遊女)。
「ここ通らせてもらうよ。はい、通行代」
「一文?いや姐さん、これじゃ半分だ」
「いいんだよ、私は橋の真ん中までしか用事がないんだ」
と言うや、トントントントンと駆けていきます。
「待った!さては毎晩、身投げってのはお前か?……のわけねえか」
後ろから抱きかかえるようにして引き留めると、
「ちょいと放して!」。
「そうはいかねえ」
花魁はその場に泣き崩れ、うつむくうなじに鬢のほつれが三つ四つ。
ほのかに漂う麝香(じゃこう)が艶かしい。
「もうだめ、いっそ死んでしまいたい……」
「男にふられたのかい?気の毒に。でも、あんたみてえな器量よしなら、幾らでもやり直せるって。もう一ぺん頑張って生きてみなよ」
「いいえ私はね、生きるのがもう嫌んなったの。それでも頑張れ?頑張れって一体何を頑張れっていうのさ?」
「そりゃ……生きてりゃいいこともあるさ。朝の来ない夜も、春の来ない冬もねえだろ。そのうちきっと夜が明けるさ。やがて花咲く春が来るって」
励ますものの、花魁はじっと橋番の目を見据え、
「橋番さん、その夜明けって何さ?花咲く春って何よ?あんた今まで、何かいいことあったの?」。
「いいこと?家には病気の親に、うるさいカカア、それに貧乏人の子沢山。どうせこの先も苦しいことばかり……」
「それごらんよ。生きたっていいことなんてありゃしないさ。来ない春を待ち暮らすなんてごめんだよ。生きろと言うなら、あんたこそ、生きてせいぜい苦しむがいいさ」
「ひでえこと言うぜ。でも、お前の言う通りかもしれねえな。なぜ、生きるんだろ?」
「ねえ、あんた、私と一緒に死ぬってのはどう?」
「え?」
「一人で死ぬのは寂しいと思ってたとこさ。それにさ、あんたよく見ると男前だし。来世を契った心中ってのはどう?それなら格好もつくし、明日は江戸中、大騒ぎさ」
「どう?って、お前」
花魁は、橋番の手をぎゅっと握ると目と目を合わせ、
「もう決めたの。『この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとうれば、あだしが原の道の霜……』(*1)。さ、気分も出てきたし、じゃ、飛び込むわよ。一、二の」。
とんでもない女がいたものでございます。
ちょうどそこへ巡回中の奉行が。
「そこの二人、何しとる」
「何してるってお奉行さま、見ての通りでさあ」
「早まるでない。朝の来ない」
「あー『朝の来ない夜はない』ってねえ、それはさっき終わったんでさあ。お奉行さま、ここは一つ目をつぶっておくんなせえ」
「お前たち、心中してどこへ行くつもりじゃ」
「え?どこへって、死ねば楽になれるんじゃあ?」
「じゃあ?って、行く先がハッキリせんのに軽々に飛び込む奴があるか!この大馬鹿者。後生は取り返しがつかんのだぞ!」
「そ、そうでございますが、お奉行さま、後生ってハッキリするものでございますか?」
「もちろんだ。それを教えられたのがお釈迦さまよ。いつ死んでもお浄土参り間違いない身に必ずなれる。なればこの世は大安心、大満足で、苦悩の娑婆が喜びに大転換だ!その身になるための人生じゃ。だから仏の教え通り、進みなさい。お二人さん」
「へえそうだったんですかい」
「こんな私も、お浄土参りできるのね!」
花魁と橋番が手を取り合う。
「随分と仏教に詳しいお奉行さま。一体、何奉行でございましょう?」
「わしか?わしは衆善奉行(*2)じゃよ」
*1 浄瑠璃『曾根崎心中』道行文の一節
*2 大宇宙の諸仏方が共通して教えられている「七仏通戒偈」」の一句。
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」(もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ)