「往生の一路」を残した 法霖 自決の真相 (2/6)
本山の宗義の乱れを嘆き 重鎮たちに訓戒
江戸中期の本願寺には様々な問題が山積していたことが、法霖の著書『古数奇屋法語(ふるすきやほうご)』からうかがえる。
教化する立場の者が、親鸞学徒の本道を外れては、浄土真宗の未来はない。
元文5年(1740)6月28日、法霖は本山の一画にあった古数奇屋という御殿で、本願寺の重鎮に対して訓戒を行った。
それを後日、文書にしたものが、『古数奇屋法語』だが、一宗の繁盛を願うがゆえに、現状を嘆く言葉があふれている。
「御宗風すたれ申し候わば、末々よりは種々の邪義も出来いたし、御繁昌の御本山も恐れながら御衰微なられるべく候こと、拙僧が目には明らかに見え、歎かしく存ずることに候」
(浄土真宗の正しい教えが伝わらないと、ご門徒の中から種々の異安心も起こり、今は繁盛している本山も、衰退していくのではなかろうかと、嘆かわしく思うばかりである)
法霖の憂慮する、どんな事態が起こっていたのか。本願寺の歴史を振り返ってみよう。
東西本願寺の勢力争いが終息 体制が整う
仏敵・織田信長を相手に10年戦った石山戦争のあとも、本願寺の屋台骨はびくともしなかった。増加の一途をたどるご門徒からのお布施で、本山はみるみる復興していく。
慶長7年(1602)、徳川家康の謀略によって本願寺が東西に別れると、しばらくは混乱もあったが、100年もたつと両山ともに体制が整い、空前の繁栄へと向かう。
かつての道場が寺院に昇格したり、新寺の建造などで寺院数は右肩上がりに増加した。
後生の一大事の解決一つに向かうご門徒のお布施によって、13世法主・良如(りょうにょ)の時、壮大な「御影堂」が再建され、棟上げには全国から「数千万」(*)のご門徒が参詣して見守ったという。
「唐門」「飛雲閣」など今日、西本願寺が国宝として誇る建築物も、ほぼこの時期に整備された。
*「数千万」……『本願寺史』第二巻