「往生の一路」を残した 法霖 自決の真相 (6/6)
親鸞聖人の教えを曲げた大罪 一命もって償う
湛如は法霖を法友として、学問の師として心から尊敬していた。また、かねてから、自分の病は治る見込みがないと覚悟していたのかもしれない。潔くその場で毒をのんで自害したのである。
本願寺の正史には湛如は、6月6日に大谷に参詣し、
「帰後病劇7日夜寅時示寂」
(帰還後、7日の夜、急病で亡くなった)
とだけ記されている。
当初、すぐにでも跡を追うつもりでいた法霖だが、湛如のあとを継いだ静如(じょうにょ)の素行に問題があったため、事後処理に奔走せざるをえなかった。
湛如の百カ日の法要を済ませ、後継者問題も一段落ついたので、そろそろしおどきと、49歳の法霖は決断する。
10月18日、師の若霖を継いで住職を兼任していた正崇寺(現・滋賀県蒲生郡日野町)へ向かう途中、かごの中で割腹自殺をした。
自坊に担ぎ込まれた法霖は、すでに虫の息であったが、弟子が紙と筆を渡すと、震える手で四句の漢詩を残して往生した。
往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化せん
法霖の没後、能化の重職が13年も空席だったのは、本山が受けた衝撃の大きさを示している。この後、本願寺は悔い改めたのだろうか。
この事件が秘話とされるのは、命をもって正法を護った2人の自害が、いまだに本願寺の正史と認められていないからである。
正法を曲げる罪は万死に値する。だが、現今の僧侶に、そのような覚悟や気概はあるのだろうか。