大乗無上の法を伝える 「従真垂化」 (3/3)
本当に知らされたなら
その喜びがないとするなら、無上の法に遇ったとはいわれません。無上の法が、まだ分かっていないのです。
本当に無上の法に遇ったなら、必ず、その喜びがあります。他の人に伝えずにおれなくなってくる。じっとしておれなくなってくる。
「法施しなさい」
「伝えなさい」
と人に言われてするものではない。
「じっとしておれ」
「一人で喜んでおれ」
と幾ら言われても、じっとしておれない。
無上の法には、そういう働きがあるのです。
無上の法が知らされたならば、自然に、叫ばずにおれなくなってくるのです。
ですから、自分がどれくらい真実が知らされているかを知りたければ、自分がどれくらい、伝えたいという気持ちがあるか、伝える活動をやっているかを反省してみれば、分かるものです。
どんなことでも、喜びがあれば、必ず他へ働きかける。自分だけでしまっておく、ということはできないのです。
無上の法といいながら、伝えようという気持ちが薄いとするならば、まだまだ、分かっていないのです。
自分にまず徹底する、ということが大切です。
「こんな教えとは知らなかった」「こんな世界があるとは知らなかった」
その気持ちになるところまで、真実を聞き抜くことです。
どういうことを聞かせてもらっているのか、どういう教えを求めているのか、ハッキリ自覚する。
そこから出てくるのが法施というものです。
従真垂化(じゅうしんすいけ) 独り安んじて済むか
こんなに聞きたい人が溢れているのに、なぜ説く者がいないのか。
こんなに求めている人が押し寄せているのに、なぜ与える者がいないのか。
こんなに探している人が満ちているのに、なぜ明示する者がいないのか。
こんなに迷っている人が夥(おびただ)しいのに、なぜ導く者がいないのか。
こんなに空しい人が沢山いるのに、なぜ真実聞かせる者がいないのか。
こんなに渇いている人が多いのに、なぜ注ぐ者がいないのか。
寸刻を惜しみ法雨を注ぐ秋は今である。