南無六字の城
信長に徹底抗戦した護法の力は、こうして生み出された
姦雄・信長の台頭
一方、勃興する真宗勢力を苦々しく思っていたのが、戦乱の世に頭角を現した織田信長であった。桶狭間の戦いで今川義元を破った彼は、33歳で尾張・美濃を領する大名となり、天下統一を狙った。
永禄11年(1568)、将軍・足利義昭を立てて上洛し、五畿内の猛将をことごとく打ち破り、天正3年(1575)には、信長包囲網の一角・武田勝頼を長篠の戦いで破った。
「天下布武」の信長にとっては、阿弥陀仏以外に一切の権威を認めない浄土真宗門徒が、目の上のこぶに映った。
各地の一揆勢力を弾圧する一方で、石山の軍事的・政治的要害の地にあることに着目したのである。
畿内に進出するや、石山本願寺に譲渡の相談を持ちかける。
対する11代宗主・顕如上人は、当然ながら拒絶。その後も幾度にもわたって無理難題を吹っかけるが、本願寺はことごとくけった。
元亀元年、業を煮やした信長はついに石山攻略の大兵を起こす。
降りかかる火の粉は、払わねばならぬ。真実開顕を妨げる者に意気消沈していては、何の顔(かんばせ)あってか、如来聖人に相まみえん。
“蓮如上人以来、血と涙で護ってきた法城を仏敵に渡してなるものか”と、愛山護法に燃える親鸞学徒が全国からはせ参じた。
その数、4万とも5万ともいわれる。兵糧や武具まで手弁当の民兵が、「進めば極楽、退けば地獄」と書いたムシロ旗を掲げて一死報恩の覚悟で戦ったのである。
大阪城内にある「石山本願寺推定地」の碑
実地に参戦できない者は、兵糧懇志を続々と本山へ送り届けた。その記録は今も各地の古文書に残っている。
一例を挙げれば、越後のある末寺の門徒は、黄金一貫目、白米1500俵、麦90俵、油10樽、味噌80樽、白木綿150反を石山に送っている。
彼らは厳重な石山包囲網をかいくぐって、物資運搬を敢行した。
信長によって真宗が制圧されたかに見えた美濃、三河、近江の領内からさえ、懇志が途切れることはなかった。
広島の毛利氏領内の安芸門徒も立ち上がった。
天正4年、懇志を積んだ兵糧船600余艘、警護の軍船300余艘という大船団で瀬戸内海を渡り、敵船を突破して支援した。
親鸞学徒の団結
古来、“籠城”は成功しないといわれ、歴史上もほとんど失敗している。しかし「南無六字の城」は11年、がむしゃらな兵馬の蹂躙を許さなかった。さすがの信長も石山攻略を断念し、講和を結ぶ。
野望飽くなき信長は、その後も浄土真宗を殲滅せんと挙兵したが、講和締結の2年後、本能寺の変が起き、明智光秀に滅ぼされてしまったのである。
一体、何が石山本願寺を仏敵から護り抜いたのか。
立地条件や諸将の支援などばかりでは決してなかろう。
戦いにおいて決定的要素となるのは団結である。弥陀の本願真実からわき出ずる信仰の団結は、名利を超えて心を一つにし、愛山護法に一丸となったのである。
儒学者・頼山陽(らいさんよう)をして瞠目させたのも、この南無阿弥陀仏のものすごいパワーなのだ。
“南無六字の城”の漢詩は、当時の親鸞学徒の燃える心意気を私たちに教えてくれている。