後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (3/6)
捨てようとする心も自力
学徒:ちょっと待ってくださいよ。私は後生の一大事を解決したいと思って、ここへ来て聴聞しているのに、その心は自力だと言われるんですか。
学徒:そうですよ。
学徒:その自力の心を捨てよ、ということ?
講師:そうです。
学徒:聴聞だけでなく、勤行するのも仏法の話をするのも、後生の一大事の解決のため、と思っています。その心も自力だから捨てねばならないのですか。
学徒:いやいや、そうじゃないやろ。聴聞とか法施で助かろうと思うのが悪いんやから、思わないようにすればいいということでしょ。感謝の心だけ持ってね。
学徒:「思わないようにすれば助かる」と思っているんですから、その心も自力ですね。
学徒:あっ、そうやなあ……。
学徒:「雑行を捨てよ」は、信仰の進んだ人に蓮如上人がおっしゃったのではないかと思うのです。後生の一大事を知らされて、本当に助かりたいと思って善をしている人に……。
学徒:「雑行を捨てよ」というお言葉だけ聞いて、「そうか、善をしなければいいんだな」と間違えるのは、後生の一大事が問題になっていない、だから雑行が問題になっていない、結局、捨てねばならぬ自力の心が、全く分かっていない、ということですね。
学徒:じゃあ、どうすれば後生の一大事が問題になるのですか。
親鸞会の講師:「寝ていて転んだためしなし」のお言葉には、「なぜ真宗の人達は後生が問題にならず諸善に向かわぬのか。三世因果の道理が教えられていないから、それは至極当然だろう」と書かれています。仏教を説かれたお釈迦さまは、まず、「善因善果・悪因悪果・自因自果」の因果の道理を説かれ、それは過去・現在・未来の三世を貫くことを教えられました。そこから、廃悪修善(はいあくしゅぜん)を徹底されています。この因果の道理からは、「善を捨てよ」なんて出てきようがありません。
一切経の99%が因果の道理だと教えていただきます。それだけ私たちに後生の一大事を知らせることは大変なのです。