後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (2/6)
善に向かわない人に「雑行捨てよ」とは言われぬ
親鸞会の講師:この「雑行を捨てよ」という教導は、どんな人におっしゃったのでしょうか。
学徒:むろん、雑行をしている人に、だと思います。
講師:そうですね。雑行の体(たい)は諸善万行ですから、善を実践している人です。タバコのまない人に「タバコのむな」とはだれも言いませんし、酒を飲まない人に「酒飲むな」とも言いません。
昨年5月1日の親鸞会発行の『顕正新聞』に掲載された内容を読んでみたいと思います。
「寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし」
歩いたことのない人に転んだということはない。なにも持たぬ者が物を落としたという話も聞かれない。
朝晩、拝読する『聖人一流章』には「もろもろの雑行をなげすてて」とあるが、浄土真宗の人達は雑行がなにやら全く知らない。
だからいくら蓮如上人に「雑行をなげすてて」と教えられても馬耳東風、流転を続ける。
後生を案じ往生の間に合うと励む(自力)諸善を雑行というのだが、どだい後生が問題になっていないのだから、雑行が問題になるはずもない。信仰がそこまで進んでいないのだ。
なぜ真宗の人達は後生が問題にならず諸善に向かわぬのか。三世因果の道理が教えられていないから、それは至極当然だろう。
先ず、釈尊が因果の道理を説かれ、廃悪修善を徹底されたのはそのためだ。しかもそれは釈迦の勝手な判断でなく、本師・弥陀が誓われた救済の要門だからである。
親鸞聖人はそれを、善ができると自惚れている心(自力)を粉砕し、雑行をすてさすための阿弥陀仏の十九願であると教えられているのである。
講師:雑行をやっている人に、「雑行を捨てよ」とおっしゃっているのです。
ところが、善に向かわず、雑行とは何かを知らない人は、馬耳東風、聞き流しているのです。それどころか、「善を捨てねばならない」とまで言う始末です。私たちは、雑行の意味をよく知らねばなりません。
学徒:こんな大事な言葉なのに、知られていないんですね。
講師:ここに、「後生を案じ往生の間に合うと励む諸善を雑行という」とあります。なぜ、雑行が問題にならないのでしょうか。
学徒:後生が問題になっていないからです。
学徒:後生を心配して励む自力諸善を雑行というのだから、後生が問題にならなければ、雑行も問題にならないわけだ。
講師:「自力」という言葉は、世間でも使われますね。
学徒:「遭難者が自力で下山した」とか、「自力優勝」とか。
学徒:自分でやること、自分の力という意味で使っています。
講師:仏教では、後生の一大事を自分の力で助かろうとする心を自力といわれます。往生(※4)の資助(助け)にしようとする心です。だから、後生の一大事が分からないと、自力の心は出てきようがありません。自力の心でする善が雑行ですから、雑行も分からないのです。
※4:往生:死んで阿弥陀仏の極楽浄土に生まれること。