後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない (5/6)
「雑行を捨てよ」とは、「自力の心を捨てよ」
学徒:善のすすめを否定する某集団は、「救われた」といっても、仏恩報謝の行がまったくないですね。おかしなことに、阿弥陀仏の御心を伝えようとする人がいない。
講師:正しい親鸞聖人の教えを知らないまま、体験談ばかり聞かされて、何かを握っているからでしょう。「助かったつもりの信心」では、伝えようがありませんね。
学徒:その集団のトップは、「息子がころげまわって念仏を称えたのが獲信」と本に書いているそうですよ。
学徒:頭(トップ)がそんな程度ではね。
学徒:機(人)の上に、信・不信を分けるのも彼らの特徴です。
学徒:親鸞聖人や蓮如上人でさえされなかったようなことを平気でやるのですからね。
学徒:そんな体験至上主義のところで「救われた」と言っていた人が、2、3年後には、全く仏法と縁のないような人になっているのに、驚いたことがあります。伝えるどころか、仏法を聞く気持ちも、まったく失せてしまっているのですから。
学徒:恐ろしい人工信心ですね。
学徒:千万の化城(自力の信心)に気をつけよ、とお釈迦さまが言われるとおりですね。
親鸞会の講師:そろそろ、結論に入りましょう。
後生の一大事も雑行も分からずに、「雑行を捨てよ」と聞いて、「善をしなくてもよい」と思っているのは、寝言を言っているようなものなのです。 その雑行が本当に廃るのは、阿弥陀仏の本願に救い摂られ、後生の一大事が解決できた時。その一念に、
「利剣即是 弥陀名号(りけんそくぜ みだみょうごう)」
南無阿弥陀仏の利剣で、「後生の一大事、助かりたい」という自力の心が切り捨てられますから、雑行は一念で廃るのです。
善い行いそのものが雑行なら、一念で廃るはずがありません。また、阿弥陀仏に救い摂られたあとは、雑行は絶対出ないのですから、もし雑行イコール善なら、雑行が廃って救われたら善をしないことになります。そんなバカげたことがあるはずありません。
大事なところなので、繰り返しますが、「雑行を捨てよ」とは、「善を捨てよ、やめよ」ではなく、「自力の心を捨てよ」です。その「捨てよ」というのも、自分の力で捨てられるものではありません。南無阿弥陀仏を廻向していただいた一念に、雑行雑修自力の心がなくなるのです。自力の心が廃るのです。自分の善や念仏を「往生の足しにしようとする心」は、きれいになくなってしまいます。これを、自力浄尽といいます。
同時に、浄土往生がハッキリいたします。後生の不安は、まったくなくなります。これ皆、南無阿弥陀仏の一人働きなのです。
従仮入真、三願転入、ああ、すべては不思議な弥陀のお計らいだったなあ、と知らされて合掌せずにおれなくなります。
浄土真宗のどんな学者も、ここが分からないのです。学問で分かるような世界ではありませんからね。
雑行が廃る一念まで、弥陀の本願・他力を聞かせていただきましょう。