史上最大の宗教弾圧
「承元の法難」は1冊の本から起こった (3/6)
奈良の諸宗と比叡山の圧力
天災、大火、戦争等で都は荒れ果て、人心は大いに乱れた時代。
既成教団は、悩み苦しむ大衆の救済には何の力もなかった。弥陀の本願の救いが民衆や貴族、武士にも広がったのは自然の流れだった。だが、真実を叫べば叫ぶほど、非難も起きる。「法然は偏執の輩だ」との非難が最も多かった。
聖道門勢力が実力行使に出たのは、承元の法難に先だつこと3年、元久元年(1204)10月であった。
まず比叡山の僧徒たちが専修念仏停止を決議し、これを受けて朝廷は吉水の教団に戒告を発した。
法然上人は、自重を約束する文書を天台座主に提出なされ、これによって僧兵の怒りは一時沈静化したが、批判の火の手は、次に奈良から揚がった。
急先鋒は笠置寺の解脱房貞慶である。彼は聖道門随一の学僧であった。8歳で興福寺に入り、法相・律の教えを学び、学者として将来を嘱望された。僧侶の堕落を憂え、38歳で遁世して笠置寺に入り、戒律の復興に努めた。
そんな学者が非難を9項目にまとめた「南都の奏上文」を朝廷に提出した。奈良の諸宗が一丸となって、法然上人の厳罰と教団解散の訴訟を起こしたのである。
元関白の九条兼実公など、貴族階級にも法然上人の支持者が多くいたため、彼らの工作によって危害が及ぶことはなかったが、念仏者への疑謗破滅の気配はいよいよ高まっていた。