史上最大の宗教弾圧
「承元の法難」は1冊の本から起こった (5/6)
無実の罪
これらの人々は飽くまでも無実であり、法難は無法な弾圧であると、親鸞聖人ご自身が『教行信証』に告発されている。(※3)
「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥しく死罪に坐す。或は僧の儀を改め、姓名を賜うて遠流に処す。予はその一なり」
(天皇も臣下も、真の大法に背き、正義に違い、みだりに無法の忿を起こし、怨を結び、ついに浄土真宗を興隆してくだされた法然上人をはじめ、門下の優れた人々を罪科のいかんを考えもせず、無茶苦茶に死罪を決行し、また、僧侶の資格を剥奪して遠国に流したのだ。迫害するのは権力の本性とはいいながら、何という無法であろう。親鸞もその流刑に遭った一人である)
体制を脅かす思想を暴力で弾圧する権力者の本質をズバリ見抜かれた、厳しい文章である。
また、この直前の文中に書かれている弾圧の張本人〈太上天皇〉(*)の文字の後に〈後鳥羽院と号す〉の文字を書き加えられたのは、後年のことである。
*太上天皇……皇位を後継者に譲った天皇のこと
因果の道理に狂いなく、41歳で隠岐に流された後鳥羽上皇が流人として死んだ時(*)(1239)、院号は〈顕徳院〉だったが、仁治3年(1242)に〈後鳥羽院〉と改められた。
*流人として死んだ時……後鳥羽上皇は鎌倉幕府から政権を取り返そうと挙兵した(承久の乱)が、失敗して流罪となり、60歳で没
その知らせを京の街で聞かれた70歳の聖人は、推敲していた『教行信証』の後序に〈後鳥羽院と号す〉の文字を書き加えられたのである。
最初は匿名だったがこの時、名指しされたことから、権力者に対する聖人の生涯変わらぬ、烈々たる怒りが伝わってくる。
※3…親鸞聖人決死の告発文
古今を通して、こうまであからさまな天皇批判は類を見ない。学者も瞠目する文章である。
ここをもって、興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す]に今上[土御門院と号す]の聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ。これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥しく死罪に坐す。或は僧の儀を改め、姓名を賜うて遠流に処す。予はその一なり。(教行信証後序)