史上最大の宗教弾圧
「承元の法難」は1冊の本から起こった (4/6)
無法な上皇の怒り
権力者の本性ムキ出し
一方この時、朝廷の実権を握っていた後鳥羽上皇は、ひそかに計略を練っていた。
彼には、教えの正邪などどうでもよく、自己の保身が優先であった。
神道が後ろ盾の天皇家にとって、「一向専念無量寿仏」は、危険極まりない思想であった。神を否定し、阿弥陀仏を信じた一念で、貴賎貧富を問わず、どんな人でも救われると説くからである。
平等の弥陀の救済を求める民衆のエネルギーが爆発すれば、既存の価値観や体制は根底から崩される。
上皇はそう察知し、世俗の不祥事が起こるのを待っていたのだ。事の本質から大衆の目をそらして吉水一門を一気につぶすためである。
そんな権力者や南北僧たちに弾圧の口実を与えたのが、いわゆる「松虫鈴虫事件」であった。
念仏停止の噂が都に広まる建永元年(1206)12月、上皇26歳の熊野詣でに絡んでそれは起きた。
年に1度、熊野に参拝し、長寿の祈祷を受けるのが恒例だった。沿道の迷惑顧みず、大勢の従者を引き連れて往復約1カ月、行く先々で遊女や白拍子(*)を呼んで羽目を外す。
そんな旅から帰洛すると、寵愛していた女官の鈴虫・松虫の2人が、法然上人の弟子・安楽房と住蓮房の寺で一晩を明かしたという。
*白拍子……流行歌謡を歌い舞う遊女
これが上皇の怒りに触れた。布教にかこつけて宮中の女と密通したとして、安楽房らを拘束したのである。
仏縁深く、後生の一大事に驚いた鈴虫・松虫が、御所を抜け出して鹿ヶ谷の草庵に参詣し、一晩聞法してもおかしくはない。
しかし、権力者が言うような密通があったのか。どの文献にも、そんな記述は見当たらない。法然上人に批判的な歴史書でさえそうなので、これは権力者のデッチ上げと見る識者がほとんどである。
しかし、弾圧の嵐がついに吹き荒れた。
時に承元元年(1207)2月9日、住蓮・安楽が御所に連行された。
白州の上で拷問を加えられた時、安楽は善導大師の『法事讃』のご文を叫んだという。(※2)
「己の欲と怒りに任せて、権力を振りかざし、無上の妙法、弥陀の本願を説く者を迫害する、その大罪、万死に値しますぞ!」
死を覚悟した破邪の舌鋒に、激怒した上皇は斬首を厳命。大衆が見守る六条河原、日没の空に紫雲がたなびき、高声念仏が響きわたる中、処刑が行われた。
法然・親鸞両聖人の流刑が行われたのは、その約20日後であった。
高齢のため、極刑を免れられた法然上人は土佐へ。
最も危険な人物とされた親鸞聖人は、いったん死刑の判決を受けたが、九条兼実公の計らいで、越後へ遠流となられた。
平安時代は、殺人や放火の犯人でさえ、死罪は行われなかったといわれる。
だが、承元の法難は、殺人犯でも放火魔でもない、僧侶4人の命が奪われ、8人が流刑になるという、史上まれに見る大弾圧事件だったのである。
※2…謗法罪は無間業
欲と怒りと愚痴で念仏者を迫害する者たちは、恐ろしい謗法の罪で地獄に堕ちて無限の苦悩を受けると、中国の善導大師は教えておられる。
「五濁増の時は多く疑謗し、道俗あい嫌いて聞くことを用いず。修行することあるを見ては瞋毒を起こし、方便破壊して競いて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず」 (法事讃)