徹底検証 三業安心と十劫安心
浄土真宗の信心
機相では語られていない
信相でのみ説かれている
浄土真宗の正しい信心は、親鸞聖人・覚如上人・蓮如上人を一貫する信心である。この三方の信心は一味だから、これらの方の信心と異なるものを異安心という。
浄土真宗で信心を語る時は、機相では語られていない。
「機」とは我々の身、口、意の三業である。
「機の上で語られていない」「三業で語られていない」のである。
これは、「何時」「何処で」「どのように」というような、各人各様異なることは説かれていないということだ。
一人一人違う三業では語られていない、ということである。
弥陀より賜る他力の信心は、三業で語れるものではないからである。
分かりやすく言えば、「私はああだった」「こうだった」と三業(体験)で語るのは、機相で語っているのである。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、そのような説き方は一切なされていない。
また、他人の三業で、
「あの人は獲信している」
「あれはしていない」
などとも言われていない。
これを、「機相では説かれていない」という。
浄土真宗の信心は、信相でのみ語られている。
「法の上で語る」ともいう。
真実の信心は常に万人共通の普遍的な表現で、書かれているのである。
お聖教は常に、信相で語られている。
信前・信後の違いを、いつの時代でも共通する普遍的な説き方で書かれている。
例えば、「三不三信の教え」ならば、阿弥陀如来に救い摂られた人に共通する心を「三信」と言い、救われる前の心を「三不信」と説かれている。
この真実の教えが分からねば、自ら異安心に陥り、人をも迷わせることになる。だからこそ、教学が大事になるのである。
真剣な聞法と教学の研鑚で、親鸞聖人の教えに明るくなってこそ、親鸞学徒の使命を果たすことができるのである。
(三信) (三不信)
○淳心 不淳 (あつからず)
○一心 不一 (一ならず)
○相続心 不相続(そうぞくせず)