若き親鸞学徒、職場で仏法を
宴席で大激論!?
死後は有るか無いか
千葉県 Tさん
医薬品原料メーカーで営業を担当するTさんは、「命にかかわる業界だからこそ、人生の目的の重さを伝えたい」と常々思っていた。
「でも取引相手は、人生の大先輩ばかりです。仏教を学んでいることは話していましたが、年下の私から伝えられる機会はあまりなく、歯がゆい思いをしていました」
それがある晩、思いもよらぬところから、チャンスが転がり込んできた。
営業マンとして製薬会社の相手を接待していた宴席でのこと。お客さんがポツリつぶやいた。
「こないだ、家内がガンで入院しましてね。何とか快復したんですが、自分もそんな年になってきたんだと思うと急に寂しくなっちゃって。人生八十年といわれる世の中で、もう六十近い。あと十数年しか生きられないと思うと暗い気持ちになるねえ。死んだらどうなるんだろうと考えると不安じゃないですか」
今こそ仏法を伝える時だ!と思っていると、別の人が、「死んだら何もなくなるんだから怖くなんてないよ」と、半ば投げやりに言い放った。
続いて他の人も、「そうそう。だから苦しかったら早く死んだほうがいいんだよね。延命治療にはお金もかかるし、つらい思いまでして長生きしなくてもいい」。
いずれも、五、六十代の男性だ。やはり死後はないと考えている人がほとんどだなと思いながら聞いていると、今度は、「いや、どうかな。元気な今は、“死んだら死んだ時さ”とか言ってられるけど、病気になって死が目前に迫った時、同じように言えるか、オレは自信ないな」という意見も出てきた。
最初に疑問を投げかけた男性は「結局どっちなんだ?」と、困った顔をしている。
その時、Tさんが口を開いた。
「仏教を説かれたお釈迦さまは、死後はあると教えられているんですよ」
「でもさぁ、死んで帰ってきた人はいないんだから、分からんでしょ」と反論されると、
「『死後はない』と言う人でも、毎年八月になると、慰霊祭をやったりしますよね。死んだ後がないなら、慰める霊もないはずです。それに、人が亡くなると、決まって『冥福を祈ります』と言うのはどうしてでしょう。冥福とは、
“冥土の幸福”のことですが、冥土とは死後の世界のことなんですよ。盆に、墓参りに行くのも、死後があると認めているからではないですか」。
そこまで言い終えると、皆、箸を止めて、深いため息をついた。
「うーん、なるほど」
「そう言われればそうだな」
続いて、「仏教では、死んだらどうなるか分からない心を無明の闇と教えられています。その心が苦しみ悩みの根元であり、解決の道もハッキリ説かれているんですよ」と伝えた。
「仏教って、そんな教えなのか。葬式法事のイメージしかなかったな」「きみは詳しいなあ」と驚かれたという。
「案外、身近なところに仏法を伝えるチャンスはあるものですね」
Tさんは、さわやかに語っている。
働く意味 知ればこそ
和歌山県 Oさん
福祉の専門知識を生かし、障害者指導員として働いている。
印刷課で、今年入社した数名の障害者を担当し、コピーのとり方や文具の扱い方、生活習慣やマナーの指導に当たり、自立に向けての相談も受けている。
ここで働く障害者の九割が発達障害を抱えており、ホチキスの作業一つとっても、なかなか思うように進まない。
何を望まれているか分からず、自分のしたいように仕事をしてしまう人が多いという。紙がずれ、とめる位置がバラバラでも、とにかく人より速く仕上げようとしたり、大ざっぱで、抜けたところに気づかなかったりする。
「そんな時、集中してないからだと突っぱねるのは簡単ですが、体の位置や向き、視線、手つきなど詳しく様子を見て、きれいにできない原因を見つけ、失敗する率を減らせるよう、細かく体の動きを説明します」
普段は冗談を言い合い、笑顔を絶やさないよう心がけるが、同じことを何度言っても進歩のない時は、心を鬼にして、しからねばならない。
「向上してもらいたいと念じて、目を見て真剣に、短い言葉でポイントを伝えるようにしています。まずかった点だけを伝え、感情を傷つけないように気をつけているつもりですが、なかなか難しいですね」
よりうまくできたら、オーバーなくらいに褒める。
「今まであまり褒められた経験のない人が多いので、褒めるとすごくいい笑顔をされるんですよ。忍耐のいる仕事ですが、その笑顔を見られた時、この道を選んで、本当によかったと思うんです」
Oさんは、大学生の時、親鸞会と出会い、親鸞会で仏法を聞き、仏法者は慈悲の実践に努めるべきと思い、専門学校に入り直した。
「仕事が思うようにいかなくて、途中で投げ出してしまう人もある。そんな時、頑張って働いていこうと勧めるのが指導員の仕事。つらくとも、なぜ働いて生きていかねばならないのか。本当の働く意味を知らされた親鸞学徒だからこそ、できる仕事だと誇りに思っています」
心照らす仏法に感謝
富山県 Yさん
「私のいた小学校は、とても荒れていました」
ある日、男子生徒がゴミ箱を蹴飛ばし、ゴミが散乱したまま、全員帰ってしまった。
「いわゆるいい子だった私は、一人暗くなるまで教室の掃除をしていたんです」
そんなことを続けているうち、「私はこんなにやっているのに」と人を恨む心がむくむくと膨らみ、自分ではどうすることもできなくなっていった。
ところが、親鸞会と出会い、親鸞聖人の教えを聞くようになり、心の持ち方が変わったという。「人ばかり責めているが、自分はどうか。親身に相手を思ってのことだろうか。いい子でいようとするのも結局、『しかられたくない』『悪く思われたくない』という心なのに、自分は一生懸命やっていると人を見下し、おごる姿を知らされたのです」
現在は病院で事務を執る。
「自分を正しく深く見つめることは、よい人間関係を築き真の医療を届けるうえで、とても大事だと思っています。心のうちを照らしてくださる仏教にとても感謝しています。親鸞会を知ったことで、私の人生は、本当の意味で前向きになりました。。」