真の医療って?
難問にであう
シンプルですが、その中に複雑が入ってきました。
医学部の入試ならどこにでもある面接の対策をしていると、色々考えさせられる問題が出てきました。
「末期ガンの患者を苦しくても生かす意味があるのか?
いや、苦しい上に治療を続けても確実に治らない。
ならば、『殺してあげる』のが親切なのか?」
安楽死の問題です。
答えは分かりませんでした。
心情としてはなんとか生かしてあげたい。
でも、ものの本によると患者さんの苦悩の日々が描き出され、「苦しい、死にたい」とも言っている人もいる。
なんとか、生きるのはこのためだと答えたい。
答えをさがして本を読みあさりました。巷にある医学関連の本。図書館にある患者さんから見た医療界のエッセイ。短い期間だったので冊数は少なかったですが、かなり幅広いジャンル、趣向の本を読みました。
その結果、自分がかろうじて出した答えは、
「患者さんが満足する医療を提供する」
でした。最終的に亡くなってしまうことになったとしても、その人が笑顔で安らかに旅立っていけるなら成功だ。そういう医療をめざそう、そう思い人生のコマを進めました。
しかし、自分でこの答えの欠点に気づいたのです。たしかに、満足する医療を提供できればいい。では、その満足する医療とはなんだ?
笑顔で対応することか?
それなら、ずっとすごい医師がいるはずだ。
24時間側に居てくれる医者か?それに近い人なら前にテレビで特集されていた。
助からないと分かっても必死に治療してくれる医療か?さっき読んだ本に載っていた。
話を真摯に聞いてくれる医師か?そんな人の話は何人も聞いた。
99点を与えられるような医療、医師ならたくさんいるかもしれない。
しかし、苦しくても生きるのはこのためだ、とハッキリ答えて、100点満点を与えられる医療は分からなかったし、ついに出会えなかった。
大学で探すしかないのか。
本を読んでもニュースを聞いても答えが分からない。
卑屈な考え方をすれば、お偉いさん方が考えても分からなかったのだから、高校生の自分が分かるはずがない。
大学に入ってゆっくり学び、探そう。
友人の死
そんなことを考えている時、高校の友人が亡くなったのです。
生まれつき体が弱く、知り合った時、すでに重い病を抱えていて、頻繁に学校を休んでいました。
高校の3年間もなんとか卒業できた、というほど身体がよくなかったのです。
18年間生きてきて、大学で新たに勉強を始めようという時に死んでしまった。やりたいことを、やらなければならないことを、彼は成し遂げられたのだろうか?
いや、ほとんどできなかったのではなかろうか。これから、という時、まだやらなければならないことが残っている。そんな状態で死んでしまった彼の人生は意味があったのか。より深い闇に陥り、分からないまま、いつしか考えないようになってしまいました。
親鸞会との出会い
大学に入った後、親鸞会で親鸞聖人の教えを聞くようになりました。その中で、心にドシッとのしかかり、今でも忘れられず、ハッキリ心に残った話があります。
「臓器移植には莫大なお金と多大な労力がいる。臓器移植した患者さんが、苦しくとも生きるのはこのためだった。この医療がなければこの幸せにはなれなかった。これが人生の目的であり、それがハッキリするんだ」
と。その時、顔や口には出しませんでしたが、自分は患者さんに言える答えが見つかったのではないか、と心躍るのを忘れられませんでした。
人生の目的があるからこそ、親鸞聖人の教えがあるからこそ、苦しくとも治療を続け、目的を達成するまでは生き抜かなくてはいけない。
そのために医療があるんだ。自分の目指す医療が、ここにあるんだ。
親鸞会で、そう思えるものに出会えました。