息子と夫が身をもって
教えてくれたこと
石川県 宮本 津喜子(仮名)
私は、滋賀県に6人兄弟の末っ子として生を受けました。
5歳の時に母が、その10カ月後には父も、後を追うように病気で亡くなりました。
親戚の勧めで子供のいない家で養女として育てられることになりました。しかし、父は体が弱かったので、私は中学を卒業後、家計を助けるために一生懸命働きました。
そんな養父母とも別れて途方に暮れていた23歳の時、親戚の勧めで初めて高森顕徹先生から親鸞聖人の教えを聞かせていただいたのです。今から45年前、高岡市前田町の最初の会館に参詣しました。
親鸞会の会員となり、その後高森先生は私を心配してくださり、富山県の学徒のお宅に、住み込みで働かせていただくことになりました。しかも、ご法座のある時は休ませていただけるというありがたい条件で。私の人生の中で、夢のようなかけがえのない時間でした。滋賀へ参詣する時は、当時、高速も倶利伽羅トンネルもなく、峠を越えての道でしたので、7時間ほどかかりました。
その後、縁あって金沢に嫁ぐことになりました。お姑さんは1年に2回、高森先生を招待している熱心な方でした。
間もなく2人の子供にも恵まれ、聴聞、仕事、子育てと、忙しい中にも喜びあふれる、充実した毎日でした。
3時間後、帰らぬ人に
40歳を過ぎて主人が、ビル用の建築金物の会社を設立、2人で夜遅くまで働く日々が続きました。息子も高校卒業後、自ら手伝うようになり、主人も私も、とても頼もしくうれしく思っておりました。従業員も30人となり、順調でした。
ところが平成14年1月13日、朝一緒に食事を取って、「ちょっとドライブに行ってくる」と出掛けた息子が、3時間後に帰らぬ人となってしまったのです。35歳でした。
変わり果てた息子と対面した時、あまりに突然のことで、ショックで声も出ず、その事実を受け入れることは、なかなかできませんでした。
主人も、会社を息子に任せようと思っていた矢先でしたので、私以上に悲しみました。
残してくれた5歳と8歳の孫のためにも私たちがしっかりせねばならない、これも仏教を聞けよの弥陀のご方便と、2人で孫を育て、力を合わせて進みましょうと決意しました。
しかしその1年後、今度は主人が体調を崩し、検査したところ、結果は何と、膵臓ガンの末期、余命2カ月と宣告されたのです。
耳を疑いました。
もう阿弥陀さまを念じるしかない、と勧めましたが、つらくて真剣になれない様子でした。日増しに衰弱していく主人は、死期を感じたのか、会話も少なくなり、かける言葉も見つかりません。時々、涙を流しておりました。
この時私に、仏法は元気な時にしか聞かせていただけないことを身をもって教えてくれたのです。息子を亡くして1年半、主人も68歳でこの世を去ったのです。
「散った桜は来年も咲くけれども、消えゆく命は二度と戻りません。一大事とはこのことです」と、高森先生は教えてくださいます。
「諸行無常、会者定離」とは聞かせていただいておりましたが、2人の死はあまりにも厳しいものでした。
無常の嵐の中
おかげさまで会社は、娘夫婦が続けてくれております。6人兄弟だった私も、今は3人となり、振り返りますと、無常の嵐の中、親鸞聖人のみ教えに支えられながら、必死に生き抜いてきたように思います。
この上は、今しかない命をしっかりと見つめて、仏法に身を沈め、親鸞学徒として光に向かって進ませていただきます。